今回は私自身のPTA体験談。2回に分けてお届けします。
初めて委員を引き受けてから現在にいたるまで
正式にPTAの委員を引き受けたのは長男が6年生の時でした。
それまでは下の子に手がかかり、活動に取り組む自信がなかったので、最終学年まで待って、校外委員を引き受けました。
そのほか、書記、広報と経験し、今年度は小学校の学年委員と、中学校の書記をやっています。
自己紹介
改めまして、管理人のRuinaです。
2020年現在、高1の息子と、中1、小4の娘がおります。
PTA歴を書き出してみると、結構やってますね。
すごく教育熱心で、子どもに関しても前向きに取り組んでいるお母さんぽい(笑)
なんでこんなにやっているんだろう?
子どもが3人いるから回数が多いというのもありますが、書記に関しては継続を打診され、それを受けているだけです。
嫌なことを何年もやらされてかわいそう?
そう周りに思われてるかなぁ。
あの人抜け出せないんだね。とか。
ともかく。
様々な見方があるかもしれませんが、実際はメンバーに恵まれているのと、先人の会長の努力のおかげで大分スリム化されているので、他の学校よりやりやすいのではと思います。
ずっと一緒にやっている副会長がとても親切で優しい方なので、その人に言われたら続けちゃいます。これが実は一番大きい。
逆に、その副会長が辞めたらとても心細くてやる気がなくなります。
学校嫌いな私が
今、子ども達を通わせている学校が嫌いという意味ではありません。自分の学生時代の話です。
実は私、小、中ともに不登校児でした。
原因は今でもよくわかりません。いじめられていたわけでもなかったのですが、とにかく学校に行きたくなかった。
今は不登校に対する考えも変わってきたと思いますが、30年前なんて、めちゃくちゃ白い目で見られましたし、先生が迎えに来て無理やり連れて行かされてましたから。
友だちにいじめられることはありませんでしたが、先生にいじめられてたようなものですね。体罰は当然のようにありましたし、不登校という事実を両親にも受け入れてもらえませんでした。
なので、中学を卒業した後の解放感は今でも覚えています。もう「学校行きなさい」と言われなくて済む!と。
そのまま高校へも進学せず、フリーター、その後20代前半で結婚、出産という流れになるわけですが、育児に関して、かなり不安がありました。
息子は赤ちゃん時代からかんしゃく持ちで、毎朝登園を渋り、大変な思いをしていたので、小学生になったら本格的に不登校になるのではとかなり心配しましたね。
そんな私の不安は解消されないまま、小学校へ入学。
すると突然スイッチが切り替わったように、毎朝スムーズに家を出るようになったのです。
何が息子を変えたのかはわかりません。自分で変わったのです。(私は手を尽くしてお手上げ状態でしたから)
「子どもに対して親ができることは少ない」と聞いたことがありますが、まさにこのことだと実感しましたね。
多少のトラブルはあったものの、無事6年間の小学校生活を終えることができました。
そして小、中とあんなに学校が嫌いだった私も、今やこんなに学校に関わっていることが不思議で面白いですね。
不登校児だった事実は、一緒に活動している役員のみんなは知らないので、知ったらどうなるんだろうなんて思いながら、活動に携わっています。
卒対×3
初めて携わった活動は幼稚園での「卒対」です。
そこで早速洗礼を受け(笑)教訓を得て、現在にいたります。
以下、もう少し具体的にお話しますね。
ある日突然卒対に
長男が5歳の時、保育園から幼稚園に移りました。
初めての幼稚園で緊張する中、ある日突然卒対のメンバーから声をかけられ
「アルバムいる?記念品いる?卒対費〇〇円なんだけど…」と言われて、みんな何かしら役をやってるから、とその日から卒対メンバーに入ることになりました。
まず、卒対という言葉も知らなかったし、卒園までの半年しか属さないのに、アルバムを半強制的に買うことになったのも疑問だし、保護者がアルバムを作るという事実にも驚きました。
5歳の9月入園と中途半端な時期でしたが、うち以外にもう1人入園した女の子がいて、そのお母さん(Aさんとします)も一緒に卒対をやることに。同じ境遇の人がいるのは心強く思いましたね。
とにかく、何かやれることがあるなら、という気持ちで臨みました。
が、とにかくまとまらない!進まない!
特にアルバムと謝恩会。
確か記念品や出し物は決まっていたと思いますが、一番大変な2つがなかなか進まず、さすがに初心者の私でも「このままで大丈夫なの?」と思いました。
作業の段取りが全くできていなくて、集まってもほぼ世間話。
謝恩会会場は幼稚園のホールなのですが、そのための装飾も卒対で考えなければなりません。
で、どうなったかと言いますと、アルバムは写真の選定をみんなでやろうとしたことが裏目に出て、誰がどれを選んだかよくわからなくなり、最終的に担当の1人が選定~レイアウトまでを行っていました。
装飾は、担当のお母さんが「何もアイディアが浮かばない」と挫折。
結局、同時期に入園した女の子のお母さん(Aさん)と、私の2人で、謝恩会の台本作成、BGMなんかも選曲しました。
Aさんは、パッチワークが得意で、園に贈呈する「テレビカバー」も作っていました。とても大変だったと思います…。
保護者から園への贈呈品は、既製品ではだめというルールがあるのです。(公立の園だったので、公務員という立場を考えてのことだと思いますが)
最終的に、卒対メンバーの中で分裂が起き、最後は何とも微妙な関係になってしまいましたが、学ぶことも多かったです。
卒対リベンジ
私の場合子どもが3人いるので、あと2回卒対を経験しなくてはなりません。
前回を思い出すと気が引けましたが、長女は保育園でしたので、幼稚園よりは大変じゃなかったのと、気心知れたメンバーだったので、気持ち的に大分余裕がありました。
そうして謝恩会担当を引き受けたわけですが、仕事の早いお母さんが多く、結果円滑に楽しくやり遂げることができました。
3度目の卒対!私がやらねば誰がやる
3度目、次女のときは、やはりメンバーによって変わるものなんだなと改めて実感しました。
まず卒対の係を決める日、私は仕事で出席できなかったのですが、そしたらなんと、欠席裁判(当事者不在で決めること)で、アルバム係に決められてしまいました!
必死にそんな決定の仕方おかしいと訴えてくれたお母さんがいたのですが(翌日そのお母さんが心配して声をかけてくれたのです)どのみち引き受けることを検討していたのでそのまま引き受けることにしました。
でもさすがにちょっと不信感が湧きあがりましたね。普段そんなに悪い雰囲気のクラスじゃなかったので、余計に驚いたし、ちょっと見る目が変わってしまいました。
ですが、アルバム担当は気の合う人ばかりだったので、その点は安心です。(メンバー重要!)
あとは今までの経験を活かして黙々と取り組むのみ。
ちなみに、この時はすべて手作りのスクラップブッキングにしました。
そのほうがみんなで取り組みやすいと思ったからです。
写真をプリントし、切り抜き、台紙に貼るというアナログ作業です。
パソコンだと、レイアウト編集は1人の負担が大きくなりがちですが、切り抜いたりする作業なら数人がかりでできます。
1人でパソコンに向き合って作業するとめげそうだったので、あえてアナログな手法を取りました。
今振り返ると、私が(アルバムに関して)全面的に仕切れてよかったと思います。
みんなでやるべきところと1人でやるべき仕事を把握することは大切ですね。息子の卒対の時は、そこがごちゃごちゃになっていたのでうまく進められなかったんだと気が付きました。
次女の年は結果的にはとても充実した卒対だったのですが、卒園記念遠足や、謝恩会は一番お金がかかりました。
金銭感覚のすり合わせも配慮する必要があるなぁと、思いましたね。
参考元リンク
【賄賂キケン!】公務員とお仕事する上で気をつけるべきこと まとめ
卒アルペディア
https://www.yumephoto.com/alpedia/tag/%E5%8D%92%E5%9C%92%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0